南昌荘

南昌荘の歴史

瀬川安五郎

(明治18年〜明治40年まで所有)

瀬川安五郎(1835年・天保6年生まれ)は、「両替屋惣助」の6代目として生糸売買で巨利を得、明治9年には秋田県荒川鉱山(現大仙市)の払い下げを受け、明治の実業家として手腕を発揮しました。県下長者番付4位の財を成し、「みちのくの鉱山王」として中央財界で著名になり、上衆小路(現清水町)にこの広大な邸宅を構えました(現南昌荘以外の部分は取り壊されている)。また、瀬川安五郎は「平福穂庵・平福百穂」(秋田県角館出身・日本画家)親子を支援し、書にも優れた文化的実業家でした。しかし、日露戦争・大凶作・米価の暴落などにより事業に行き詰まり、明治40年、この邸宅と什器・書画などを時の盛岡市長大矢馬太郎に売却し、安五郎は明治44年、75歳の生涯を閉じました。なお、盛岡市民に「サンコさん」の呼び名で親しまれた瀬川正三郎(戦後まもなく、盛岡市消防団の団長として活躍し、加賀野に整骨院を開業し、昭和45年の岩手国体では80歳の消防団長として活躍した)は安五郎の従弟正太郎の三男にあたり、上衆小路で生まれこの南昌荘で育ち、安五郎との楽しかった歳月を多くの人々に語っていました。

大矢馬太郎

(明治40年〜明治43年まで所有)

大矢馬太郎は、明治40年盛岡市長(5代目)の他、県会議長・貴族院議員・衆議院議員を経て、昭和9年9代目盛岡市長に再選され、昭和14年、盛岡市長の現職で死去、盛岡市初めての市葬が行われました。大矢馬太郎は、二年半ほど南昌荘を別荘として利用し、岩手が生んだ平民宰相・原敬が、欧米視察前の1ヶ月間をこの南昌荘で過ごしたのはこの頃です。

金田一国士

(明治43年〜昭和7年まで所有)

明治43年、大矢馬太郎から金田一国士へ所有者が変わります。金田一国士は大正10年、38歳にして盛岡銀行(現岩手銀行の前身)の頭取になり、盛岡電気・花巻温泉・花巻電鉄など交通運輸・電気ガスなど県内35社を手掛ける実業家となり、盛岡商工会議所の会頭として国鉄盛岡管理局の誘致や山田線・橋場線などの建設促進に尽力しました。南昌荘の玄関右側の和室は金田一国士が増築したもので、その時邸宅の大幅な改造を行った形跡があり、目下調査中です。京都の名園を模した見事な庭園では、豪華な園遊会や財界人の接待が行われていたといわれます。しかし、金田一国士も昭和6年の金融恐慌、盛岡三銀行の倒産などでその財を失い、昭和7年、豪商赤澤多兵衛へ所有者が変わりました。

赤澤多兵衛

(昭和7年〜昭和62年まで所有)

赤澤多兵衛(先代)は明治年創業の繊維・呉服の小売・卸業として北東北で広く商いを展開し、その財を注ぎ込み南昌荘を別荘として購入しました。「南昌荘」の名前は、赤澤多兵衛が懇意にしていた、教育者・郷土史家・書家の新渡戸仙岳に依頼してつけられました。正面玄関入り口や各部屋の看板は新渡戸仙岳の書によるものです。2代目、赤澤多兵衛は南昌荘を自宅とし、繊維卸商をはじめ幾つかの事業を展開し、「株式会社赤澤繊商」という繊維卸業を営み、100周年の家業を発展させました。しかし、大手資本による流通業界への支配が強まる中で、昭和62年、この南昌荘を手放す事になりました。

盛岡市民生協からいわて生協へ

(昭和62年から所有)

昭和44年、県内で初めての本格的な地域生協として設立された盛岡市民生協は、当時、盛岡市民の約半数が組合員として参加し、着実に発展していました。理事会は、この南昌荘が大手マンション業者により買収され、見事な庭園が無くなるという話を聞き、組合員の共有財産・共同所有として購入する事を決め、将来の「生活文化会館」建設などの活用を描いていました。
平成2年、盛岡市民生協をはじめ県内の5つの地域生協が合併し、現在のいわて生活協同組合が誕生し、南昌荘はいわて生協に引き継がれました。いわて生協は、県内各地へ生協運動を発展させ、事業・運動・経営基盤の確立に全力をあげることを優先させつつ、南昌荘を大切に維持管理してきました。
合併10周年にしていわて生協は組合員と常勤者の協同活動が次第に強まり、南昌荘の公開・活用を求める皆さんの要望に応える事が出来るようになりました。組合員はじめ多くの市民の皆さん、お取り引き事業者(虹の協力会)や行政などのご協力により、広く市民の皆さんや岩手を訪れる方々にご利用いただく事が出来るようになりました。歴代の所有者の皆さんも、喜んでいただけるものと考えます。